死は、どのような形をとるにせよ、われわれの生の周辺を絶えず囲緩(いじょう)している事象であり、しかも、万人に等しく確実にやってくるものである事を承知していながら、人は死の瞬間までそのあまりに過酷な事態からなるたけ顔を背けようとするのが普通だ。

パスカルの「パンセ」のなかに「無限なる宇宙の永遠の沈黙は、私の心のなかに戦慄を喚びおこす」というアフォリズムがある。パスカルが、宇宙大自然のなかのか弱い一存在に過ぎない人聞が考える葦であることに依って人間の倫理を沈見極めようとした時、

 

沈黙の意義に深く思いを至さざるを得なかった感慨がこの章句に込められているように思う。

 

-思索の傍には常に沈黙が存在していた-

 

ウィリアム・フォクナーの小説「八月の光」は、アメリカという文学風土から生まれだものとしては異色で、しかも出色の近代小説の糖成と体裁を具(そな)えている。男女二人の各々の十一日問に亘(わた)る行勧を軸に展開されるこの小説は〈現存する過去〉によつて生き、そして亡びる人々の物語りである
いわゆる古典と呼ばれるものが何百年も残り、それだけ長い期間人々を倦ますことをなく魅了しつづける作品の秘密とは一体何だろうか。
「論理哲学論考」、「哲学研究」で二十世紀初弧の哲学界に一時明を画(かく)し、今や伝説的な人物と化ているウィトゲンシュタィン(1889年4月26日 - 1951年4月29日)を私が知ったのは、ささやかな一冊の本との出合いに始まる。
 シェークスピア悲劇のなかで、私がなんとなく主人公に牽(ひ)かれるのは「オセロー」である。なんとなくという言い方には、多分に私個人のオセローの性格に対する共感あるいは同情的な面が含まれているように思うが、オセローがハムレットやマクベスにくらべて自己顕示においてあまりに口数少なく、彼を裏切り致命的な傷を負わす<現実>に少しの疑念も抱かず信じやすかつたというその性格に何よりも心惹(ひ)かれるのである。
 

 モーツァルトファンの特徴を一言で言えば、一旦モーツァルトが好きになったら、モーツァルトなしでは生きられないだろうということになるらしい。モーツァルト以外の音楽がこの世からなくなっても構わないとする人がいるくらいだ。やや大げさにすぎるかもしれないが、モーツァルト聴くということは未曾有の体験に属するといってよい。

ラヴェル

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私がラヴェルを知ったのは、「ボレロ」や「展覧会の絵」を聴いたのが始まりで、その後ピアノ曲の「鏡」や「夜のギャスパール」にはすっかり取り憑(つ)かれ、また彼が学生時代に書いた唯一の弦楽四重奏曲に全くトリコになった一時期もある。

 グレン・グールド、このカナダという文化的辺境に育った特異なピアニストがJ・S・バッハの作品新しい角度から光を与え、「ゴールドベルク変奏曲」、「インヴェンションとシンフォニア」や「パルティータ」などの一連のピアノ曲を世に送り出した結果、その解釈が邪道であるとか、革新的であるとかで世界的に物議をかもし出してから久しい。

バロック音楽のなかで、今日ヴィヴァルディの《四季》ほど繰り返し演奏され、かつ幾多の室丙楽団のレコードでよく耳にする曲も稀であろう。まるで、バロック音楽は、この一作に尽きるとでもいった勢いである。